Joyoliving News : 2021年10月25日掲載

諦めないことが強さに

東京パラリンピック大会出場5人制サッカー(視覚障害)日本代表 牛久市在住 佐々木ロベルト泉さん

東京パラリンピックが閉幕して1カ月半。茨城県南地域からも多くのアスリートが出場し、大舞台で活躍した姿は記憶に新しい。その一人、牛久市在住の佐々木ロベルト泉さん(43)は5人制サッカー(視覚障害)の日本代表として4試合すべてに出場し、攻守ともにチームをけん引した。

6月に行われたSanten IBSAブラインドサッカーワールドグランプリで背番号3を付けて果敢に立ち向かう佐々木選手

(C)JBFA/H.Wanibe
6月に行われたSanten IBSAブラインドサッカーワールドグランプリで背番号3を付けて果敢に立ち向かう佐々木選手

家計を助けるために故郷ブラジルを離れて四半世紀。
突然の事故で失明するアクシデントに見舞われながらも前を向き続けた佐々木さんが今、伝えたいことは―。


「全力で戦ったが5位に終わって悔しい。まだ悔しさが残っている」

初めて出場したパラリンピックで日本代表チームは1次リーグを1勝2敗、
順位決定戦でスペインを破り5位入賞。
自身が目標にしていたメダルに届かず悔しさをにじませるが、
「最高の舞台で家族のような仲間と戦えたことは素晴らしい経験だった」と振り返る。
ゴールキーパー以外はアイマスクを着けてプレーする5人制サッカー(ブラインドサッカー)は、
監督やキーパーの声を頼りに音が鳴るボールをゴールに運ぶ。
チーム内の密なコミュニケーションや信頼関係が重要で、
「仲間を信じてこの場所、この瞬間に一緒にプレーできることが一番の魅力。
気持ちの一期一会を大事にしています」


1978年ブラジル・サンパウロ生まれの日系3世。
94年に父親を亡くし家計を助けるため97年2月に来日。
2006年、夜勤に向かう途中の交通事故で失明した。
心臓に2カ所穴が開き顔面骨折する重傷を負い、2週間以上ベッドの上で生死の淵をさまよった。
目を覚まして現実を知ったときは涙がこぼれたが、
「神様が助けてくれた命。目が見えなくても未来がある」と前を向き退院に向けて努力した。
その後も小さな目標を作り一つ一つ着実に乗り越えていった。
「大きいステップは転ぶ可能性が高いけれど、小さいステップは例え転んでもすぐに立ち上がれる」。
日々の努力を積み重ね、
事故から1年後の07年夏には富士山登頂に成功するほどの回復ぶりを見せた。
「日本で一番高い山に登ったんだから、この先どんな困難も乗り越えられる」と自信につなげた。


競技人生は2009年、筑波技術大学入学時に教員に誘われてスタートした。
ルールも分からずゼロからの出発だったが、
当初からトラップを褒められるなどすぐに頭角を現した。
2013年に日本に帰化し、初の代表入りを果たしてからは着実に力を付けて
チームを引っ張る存在に成長を遂げた。持ち味は1対1の強さと前線への正確なパス。
どんな相手にも果敢に立ち向かう姿に、いつしか「不死身のロべ」と呼ばれるようになった。

(C)JBFA 憧れは宮本武蔵。
「敵が多くてもひるまないところが素晴らしいです」

東京大会を終えた今、3年後のパリ大会について質問されることが多いが、「目下の目標は次に行われる国際大会。まずはパラ5連覇のブラジルに行ってトップレベルの人たちとリーグ戦で戦うことで、日本にブラジルの強さを持って帰りたい」と近い将来を見据える。

今大会を通してブラインドサッカーへの関心が高まったが、アマチュアの選手たちは働きながら競技生活を送る。
「公的なフォローを含め、もう少し練習に専念できる環境が整えばいいと思います」リーが色付き始めた。つくばの自然と職人の技がもたらす小さな青い実に可能性が広がる。

最後にこれだけは伝えたいと口にしたのは
「毎日晴れているわけじゃない。曇りの日も雨の日も台風の日もあるけれど、その後は必ず晴れる。絶対に晴れるでしょ。
今はコロナで大変な世の中だけど、大事なのは精神的な強さより諦めない気持ち」と力を込め、
「座右の銘は七転び八起き。78年生まれだからちょうどいいでしょ」と笑った。

Blind Soccer Player ◉佐々木ロベルト泉

1978年5月2日生まれ、
ブラジル・サンパウロ出身(2013年12月日本国籍)
ポジションFP、172cm・72㎏、パぺレシアル品川所属
ブラジルのサッカー観戦、筋トレ、子育てが趣味

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