Joyoliving News : 2021年09月17日掲載

元予科練生の回顧録《阿見町がドラマ化》

大空に、飛行機に憧れて

1930(昭和5)年から15年間続いた予科練はパイロットを養成するための教育機関。全国から約24万人が入隊し、うち約2万4千人が予科練を卒業して実戦部隊へと進み、約8割の約1万9千人が戦死した。

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講演会では冒頭に「予科練って知っていますか」と問いかける戸張礼記さん

元海軍飛行予科練習生(予科練)だった戸張礼記さん(阿見町在住、92歳)の戦争体験を阿見町がドラマ化。
大空に憧れ、飛行機を愛した10代の青年は何を思い、入隊を決意したのかー。命と平和の尊さを訴える作品は動画投稿サイト「ユーチューブ」で公開され、注目を集めている。


「若鷲に憧れて〜元予科練生の回顧録」は、甲種第14期飛行予科練習生として入隊した戸張さんの約10カ月間の体験を再現したもの。

ドラマ編「若鷲に憧れて〜元予科練生の回顧録」のタイトルで、監督・脚本は茨城の歴史三部作を手掛けた松村克弥さん。俳優の石井正則さんがナビゲーターとして出演し、当時の映像や訓練の様子、写真を織り交ぜながら紹介している。


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16歳の戸張さん。制服の7つボタンは少年たちの憧れだった

「今でも飛行機は大好きだよ。当時の娯楽といえば雑誌やラジオで、軍事小説を読んでは飛行機乗りへの思いを掻き立てられたね」と戸張さん。

阿見町出身で4人兄弟の3番目。
1941年(昭和16)4月、地元の土浦中学校に入学すると滑空部に入部。「グライダーを訓練する部活が楽しくて空への憧れがさらに強くなった」。

学校生活にも慣れた昭和16年12月8日に太平洋戦争勃発。飛行機をテーマにした映画が上映されると青年たちは心を鷲掴みにされた。

戦争がひっ迫してきた1944年(昭和19)6月、募集人数が増員されると戸張さんは志願を決意。「憧れでしかなかった予科練が皮肉にも父の急病急死で現実になり、家族を養うための選択でした」。

写真3

モールス信号の訓練の様子(写真提供/予科練平和記念館)

16歳で甲種第14期海軍飛行予科練習生として土浦海軍航空隊に入隊すると全国から約2000人が集結し、分刻みで訓練が組み込まれた。
軍艦の舷側(げんそく)の高さを想定した約5メートルの飛び込みやふんどし一丁での真冬の遠泳、勝つまで土俵を降りられない相撲の負け残り戦など気力と体力を養う過酷な訓練で、毎日汗まみれになり、ボロ雑巾のようになって眠りについた。

さらに高度な教育も課せられ、軍事学や航空工学、外国語、モールス信号なども叩き込まれた。しかし、予科練教育は10カ月目で急遽中止に。

「敵艦載機が日本の上空に侵入し、訓練ができなくなってね。戦争末期の物資不足から、結局憧れの飛行機には一度も触ることがなかったね」。

卒業もできず、青森県の三沢海軍航空隊へ転隊すると夜中にひたすら穴を掘る訓練が待っていた。直径80センチの穴の中で爆雷を抱え、敵の戦車に棒型の地雷を突き立てる人間地雷が任務だった。

「空襲警報の発令の中、穴の中から空を見上げると偵察機のB29が飛来していたのを覚えているよ。土浦海軍航空隊も敵機の爆撃を受け何百人もの予科練習生が爆死したと聞き、ショックだったね」。
真夏の日差しに体力を奪われながら「もうすぐ死ぬんだな」と恐怖に襲われた。

青森に来て5カ月目。敵は上陸することなく、8月15日に終戦を迎えた。戦後は地元に戻り教師を39年務めたが、予科練の話は一切しなかった。

「生き残った同期も多くがこの世を去り、このままでは歴史にも残らない。戦死した先輩たちが祖国を守るために命を捧げた意味がない」。

現在は予科練平和記念館の歴史調査委員を務める傍ら、語り部として自身の予科練での経験を伝える講演回数は10年間で2000回を超えた。

阿見町広報戦略室では、歴史遺産である「海軍航空隊」に関する映像もドキュメンタリー編「阿見町の戦跡めぐり」として制作。

ドラマとドキュメンタリー編の2部構成に加え、阿見町観光PR動画を1枚に収めたDVDも作り、町立図書館で貸し出しも行う。

読者プレゼント

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「若鷲に憧れて〜元予科練生の回顧録」と阿見町観光PR動画を1枚に収めた「DVD」を30人にプレゼント。
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