土浦市小松ヶ丘町の国道125号線沿い、細い石段を登りきった高台に勢至菩薩を祭る小松二十三夜尊(勢至堂)が建ち、眼下には霞ケ浦、北西に筑波山を望む。
江戸時代、土地の景勝地と「晩鐘」「暮雪」などの語に漢詩や俳句を組み合わせる「八景」が各地で流行。土浦藩でも1752年(宝暦2)、藩主・土屋篤直が小松村の高台に「垂松亭」という庵を建て、「霞浦帰帆」「高津晴嵐」「田村夜雨」などを選定したことが、近年見つかった『垂松亭八景詩巻』で明らかになった。 『詩巻』によれば、垂松亭は「ふきはれて月そすミ行岡の辺の雲ハあとなき松のあらしに」とあるように暴風で壊れ、江戸後期の土浦で書画や天文学など多彩な分野に才能を発揮した沼尻墨僊が著した『小松峯記』にも「のち幾ばくもなくして暴風破壊するところとなる」と記されている。
時は流れ1853年(嘉永6)。ペリー来航に国中が揺れる中、小松村では45歳で逝った藩主の思いを残そうと「小松秋月」の舞台となった高台に勢至堂を建設。堂内に飾られた「霞浦八景扁額」は村人からの依頼で墨僊が手掛けたもので、「誰もが見られる場所に風流な藩主が選んだ八景を残そうと奔走した村人がいたということ。この扁額の歴史的意味はそこにあります」と土浦市立博物館学芸員の堀部猛さん。
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「扁額の裏に書かれた『廣瀬』の子孫は、今も地域に暮らしています」と話すのは、現在小松二十三夜講の代表を務める廣瀬昭雄さん(78)。講では現在15人が毎月旧暦23日の縁日で本尊を御開帳し、お茶や談笑を楽しむ。「垂松亭」の由来となった枝垂れ老松は幼い廣瀬少年の格好の遊び場だった。戦時中は航空燃料用に松脂を取った痕が痛々しく、戦後マツクイムシの流行で伐採されたが、「代わりに桜の木を植えた。何だか寂しかったからさ」。
勢至堂から見える霞ケ浦周辺には家々が立ち並び、景色も随分変わった。それでも「これでいいんだよ。平和に暮らせてるからね」と廣瀬さん。講では次世代の担い手を育成しようと弘法大師や地蔵菩薩、仏教のことわざなどを易しく解説した便りを定期的に発行している。
「ここから霞ケ浦の向こう、おおつ野の辺りから月が昇る。篤直さんが選んだ『小松秋月』そのものだよ」。2017年9月の中秋の名月には、初めて地域を挙げた月見会を行う。藩主の死で一度寂れた庵の跡には、老松の面影を残す桜が風に揺れる。
現在、「霞浦八景扁額」は土浦市立博物館で開催中の特別展「土浦八景 よみがえる情景へのまなざし」で公開されている。