坂東市役所から結城街道を北へ進むと、その昔未開の地に足を踏み入れ関東一円に勢力を誇った平将門ゆかりの史跡が数多く存在する。
「島広山・石井(いわい)営所跡」は将門が政治や軍事の拠点とした居館で、重臣たちの居館や住居が並び関八州を攻め落とした時の軍勢が集結していたため食糧庫や馬繋ぎ場があった。それ故付近には「弓田」「馬立」など武芸や馬に関する地名が残るほか、営所は旧岩井市の地名の由来=石井(いわい)にもなっている。
営所が歴史の表舞台に最初に登場するのは937年(承平7)の平良兼による石井夜討(将門記)。その後も関東で勢力を伸ばし「新皇」を名乗った将門に、940年(天慶3)国香の子・平貞盛と藤原秀郷の連合軍が攻撃し、営所は焼き払われた。
天慶3年2月14日、38歳で命を落とした将門を祭神として祭る「国王神社」は茅葺き屋根が特徴の県指定文化財。神社縁起によると、将門の三女・如蔵尼が父の三十三回忌に建立したとされ、ご神体の尊像「衣冠束帯木造座像」を彫って国王大明神と称し天下泰平を祈念したという。
将門敗れた後は奥州に逃れ、地蔵菩薩を深く信仰しながら80歳でこの世を去ったという。