美浦村大塚にある黒坂命(くろさかのみこと)の古墳は霞ケ浦を望む低地に築かれた大塚古墳群の中の一つで、「大塚古墳」「弁天塚古墳」とも呼ばれ地域の人たちに親しまれている。
常陸風土記逸文によると、黒坂命は東北地方の蝦夷の平定のため遠征に行く途中で美浦の景色が気に入り、「もし私が亡くなった時はこの地に葬ってほしい」と遺言を残した。遠征を終えた凱旋の途中、茨城県多賀郡十王町黒前山で病死。県北部の堅破山山頂に鎮座する黒前神社の御祭神は黒坂命と伝えられている。
遺体は遺言に従い現代の霊柩車にあたる「輪轜車」で黒前山を出発し美浦に向かった。葬送の飾りは赤や青など五彩の旗がひるがえり、雲が飛ぶように見えたり虹が輝くように見え、野原や道も美しく輝いて見えたという。当時の人はその様子を「幡垂(はだしで)の国」と呼び、後世、美浦村の地を「信太(垂・しで)の国」というようになったと記されている。
葬送後、石棺に納められて埋葬され、1847年(弘化4)に古墳の中腹にあった稲荷社を塚上の弁天社の隣に移動したときに発見され大騒ぎに。土浦市出身の国学者・色川三中が残した『黒坂命墳墓考』の記録によると、箱式石棺は縦十尺九寸、横四尺四・五寸あり、中から遺骸のほか五尺余りの剣一振り、四つに折れた剣、ほぼ形そのままの甲冑、石鏡、青銅鏡などが残っていた。
「これら出土品の数々は行方不明で今は残っていません。古墳上の木々のすき間から黒坂命が気に入った霞ケ浦の風景を見ることができます」と村文化財センター。
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[TEL] 029(886)0291/美浦村文化財センター