平安末期に「後三年の役」で活躍した若武者・鎌倉権五郎景政ゆかりの地が、牛久市桂町周辺に点在している。
1083年、奥羽(現秋田県横手市)の豪族・清原家の争いを鎮めに鎮守府将軍・八幡太郎義家(源義家)に命じられ出陣した景政は、16歳の若さで奮戦し多くの手柄を立て天下に名を示した。
戦が終結し故郷の鎌倉へ帰る途中、牛久を通過。島田台に入った一行は、関東武士の動きを探るために潜んでいた清原家の家来・鳥海弥三郎の攻撃を受け、景政は右目を矢で打ち抜かれたがひるむことなくそのまま戦い、弥三郎の軍勢を一人残らず討ち果たした。しかし、程なく桂川に転落死した。
この時、景政が目を洗い、かえり血を落としたのが奥野小学校裏手の細道を下ったところにある「おみたらしの池」。今はくぼ地だが、かつては清水が湧き出ていたという。
池の奥の墓地には部下に引き抜かせた右目の矢を納めたという「矢の根神社」、さらに景政が激しい疲れと敵を討ち果たした安堵感で夢うつつで上ったことが由来とされる「うつつ坂」などがある。
「景政の墓が今も地元の人に管理されていますが、似たような逸話は各地に残っています」と市内の歴史に詳しい坂弘毅さん。牛久市では景政ゆかりの地を巡るウオーキングコースも設定している。