TX守谷駅近くの国道294号線沿いに広がる森の中に建つ曹洞宗長龍寺に、戦国末期の小田原征伐で秀吉の配下だった浅野弾正小弼(長政)と木村常陸介(重茲)が連署した「禁制文書(きんぜいもんじょ)」がある(守谷市指定文化財)。
「禁制文書」は寺社が軍兵らによって荒らされることを防ぐために出されたもので、乱暴や狼藉、放火、寺に対し無理強いをしたり畑の作物を刈り取ってはならないという内容で、これに背くと厳しく処罰すると厳命している。
1589年(天正17)、秀吉は天下統一に向け関東制覇を目前にした北条氏政・氏直父子に宣戦布告し、翌1590年に総勢15万余りの軍兵を率いて京を出発。関東に散らばる北条方の城を片っ端から攻め落とした。
この時上総・下総に向かったのが浅野と木村率いる2万の征討軍で、守谷城開城のため長龍寺に滞在し守谷周辺の治安に努めた。浅野と木村の両将は小田原征伐の間、各地の寺社に「秀吉禁制」を残しているが、長龍寺滞在時は秀吉の朱印状を切らしていたため二人の連署で禁制が出されたとされる。
長龍寺は平安前期に空海が建立した「東明庵」が前身。その後、平将門が相馬郡を統治した924年(延長2)、先祖の桓武天皇を弔うため新たに伽藍を建立したことから将門開基とも伝わっている。このころから「徳怡山長龍寺」と今の寺号に改めた。
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