Joyoliving News : 2020年11月13日掲載

容姿端麗、弁舌颯爽 〜ある新選組隊士を弔う

時ドキ旅たび〜晩秋のかすみがうら編

伊東甲子太郎がこの世を去り今年で153年。類まれな行動力と相手の懐に飛び込む彼の生き方は、先が見えない混迷の時代にあって、私たちに何を示唆しているのだろうか。

時ドキ旅たび1

伊東甲子太郎の顕彰活動は死後間もなく始まっている。1868年(慶応4)、水戸天狗党の芳野櫻陰が油小路で絶命した甲子太郎を偲び一周忌に七言絶句を詠んだ。

油小路事件に関わった首謀者らを裁く1870年(明治3)の「東京裁判」は、笠間藩士で最後の新選組局長・相馬主殿の回顧録『贈友談話』に詳しい。

また、実弟・鈴木三樹三郎の尽力で1918年(大正7)甲子太郎は従五位を贈位され、1932年(昭和7)には鈴木家の養子の働き掛けで新選組では唯一靖国神社に合祀された。

昭和天皇が権現山(同市上志筑)で行われた陸軍特別大演習を統監した機運を駆って1935(昭和10)には志筑城跡(陣屋跡)が県指定文化財に。顕彰活動は先に紹介した戦中・戦後から令和の石碑再建造につながっていく。


御野立所
■御野立所

〈かすみがうら市上志筑495〉
昭和4年11月15日の陸軍特別大演習の折に昭和天皇が統監された場所。石碑が建つ権現山山頂には山城の土塁や堀が残されており、鎌倉時代に茨城南部の地頭であった益戸氏が築いた志筑城ではないかと考えられている。

 
長興寺
■長興寺

〈かすみがうら市中志筑1056〉
曹洞宗の古刹。本堂家の菩提寺で歴代当主の墓所(市指定文化財)もある。

 
伊東甲子太郎顕彰碑
■伊東甲子太郎顕彰碑(志筑陣屋跡)

〈かすみがうら市中志筑1037〉
2011年(平成23)に移転した旧志筑小学校跡地のクスノキのたもとに、このほど顕彰碑が建てられる。一帯は1645(正保2)に交代寄合の本堂家により陣屋が築かれた場所。




時ドキ旅たび2

今年9月末、かすみがうら市歴史博物館の資料室で驚きの声が上がった。同市高倉の旧家から寄贈された古文書の中から、天保初期に書かれた志筑陣屋周辺の絵図(本紙1面に掲載)が見つかった。

生家については、これまで地域内でもさまざまな場所が取り沙汰されてきたが、絵図に載った戸主名を基に調査すると地図の中ほどにある「鈴木三四郎」は甲子太郎の父であることが判明。企画展開始のわずか2週間前の出来事だった。

古文書を寄贈した市ノ澤創さん(41)は、同市高倉で利平や銀寄、大峰などブランド栗を扱う栗農家。農園の規模は決して大きくないが、週末ともなると関東近県から栗拾いやほっこり甘い焼き栗を求め多くの観光客が訪れる。

その昔、村の組頭だった市ノ澤家。今も残る土蔵には検地帳のほか掛け軸、兜、『東海道中膝栗毛』などの滑稽本、幕末の海防論を説いた林子平著『海国兵談』などもあったという。

市ノ澤さんは、今回碑を建てた「中志筑史源保全の会」と同じく市のまちづくりファンドを活用し古文書を整理した土蔵を図書館に改装し一般公開の準備を進めている。

また、自費で古い家屋をリノベーションしサイクリスト向けの民泊を開業する計画も進行中。市ノ澤さんは「政治史の表舞台の人物にまつわる史料発見も素晴らしいが、名もなき民衆の生活の記録から現代の生活や経済、文化振興に生かせるヒントもたくさんあるのでは」と話す。


天保初期の志筑陣屋周辺絵地図
■天保初期の志筑陣屋周辺絵地図

赤い枠部分に甲子太郎の父「鈴木三四郎」の名が。11月23日(祝)までかすみがうら市歴史博物館で展示中。

 
ショコロンファーム
■ショコロンファーム

生栗や焼き栗の販売のほか、母屋を改装した民泊も開始。甲子太郎の生家が描かれた絵図が見つかった土蔵は、来春図書館として生まれ変わる。

 
〈かすみがうら市高倉92〉
TEL:080-3751-8004
9:00〜17:00(土日祝のみ営業、訪問や建物見学は要電話予約)




時ドキ旅たび3
顕彰碑を建立した中志筑史源保全の会のメンバー

(幕府と対立した)長州を政治の表舞台に戻すことで内乱や外国の介入を防ぎ、天皇を中心として国内が「一和」することが大切である―。 1867年(慶応3)8月、伊東甲子太郎ら御陵衛士が朝廷に提出した「長州寛典の建白書」の一節である。

幕末は価値観の大転換期。容姿端麗、弁舌爽快。「甲子太郎のすごい所は、身分を越えて人の懐に飛び込めたこと」と評するのは、かすみがうら市歴史博物館館長の千葉隆司さん。

公家の三条実美や薩長をはじめとする勤皇の志士だけでなく、新選組や赤報隊に参加した岐阜の侠客・水野弥太郎など「聖も賊も含めた交流が後の見識の広さに役立ったのでは」と分析する。

1867年(慶応3)甲子太郎は計5通の建白書を朝廷に奏上したが、先に紹介した「長州寛典」もその一つ。大政奉還3日後に奏上した「32カ条の建白書」は第一に一和(一丸となって国家建設にまい進する)、第二に海軍の軍備や国防などについて具体的に論じ、最終的に「大開国、大強国」を説く。

新政府の人事は公家をトップに幕臣も新政権に参加させるという穏健な内容で「坂本龍馬の船中八策(慶応3年6月)に通じ、内容がより具体的になっている(千葉さん)」という。

生まれ年も1年違いで暗殺された日もほぼ同じという伊東甲子太郎と坂本龍馬。二人の共通点は「下級武士の出身」で、幕末という価値の転換期に柔軟な発想と多彩な人脈で来るべき時代の変革を見通した。

中志筑史源保全の会の瀧ヶ﨑洋之会長(79)は「大局的な信念に基づいた甲子太郎の行動は先の見通せない現代にあって生き方の参考になるのでは」と指摘する。

長州寛典の建白書
■長州寛典の建白書(草稿)

唯一残る甲子太郎直筆の草稿。11月23日(祝)までかすみがうら歴史博物館で展示中。


【志筑観光案内】


師付の田井
■師付の田井

長興寺の参道横を通り抜けた先に開ける田園風景の中に建つ。古く「信筑」「雫」「師付」などと呼ばれた志筑が初めて歴史に名を残すのは常陸国風土記。

その名を広めたのは719年(養老3)、常陸国の役人として中央から派遣された高橋虫麻呂で「草枕 旅の憂を慰もる事もあらむと筑波嶺に 登りてみれば尾花ちる 師付の田井に雁がねも寒く来鳴きぬ 新治の鳥羽の淡海も秋風に白波立ちぬ 筑波嶺のよけくを見れば長き日に 思ひ積み来し 憂は息みぬ」と詠み、秋の筑波山からススキの穂が揺れる志筑の田園風景を眺め、長い間思い悩んでいたことから解放された心情を歌い万葉集に編まれた。

碑の裏手には豊富な水が湧き、この地が古くから水田地帯だったことが推察される。
※駐車場3台

 
木造十一面千手観音像
■木造十一面千手観音像(県指定文化財)

〈観音堂/かすみがうら市中志筑1325〉
合掌手と宝珠手のほか四十臂を持ち、高い宝髻の外側に化仏が配されている。ふくよかな頬と切れ長の眉、引き締まった口元に、鎌倉時代の写実的な表現法がみられる。
※公開は年末年始と市の文化財一般公開時のみ

 
石像五輪塔
■石像五輪塔(市指定文化財)

〈須賀神社/かすみがうら市中志筑1277〉
鎌倉時代以降、かすみがうら市周辺では筑波山系の山から産出された花崗岩を用いて石造五輪塔が盛んに造られた。高さ209cmの大型で、地輪に「松延」や「天文十五年(1546)」などの文字が刻まれている。


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