Joyoliving News : 2020年04月06日掲載

国家の虫と、民衆の女神

沢辺さん、『養蚕と蚕神』出版

富国強兵が叫ばれた明治時代、外貨獲得を目的に国策として全国に広まった養蚕。つくば市在住で社会学博士の沢辺満智子さん(33)は養蚕業の女性労働における「身体技術と近代科学の融合」に着目。国家イデオロギーと民俗的想像力のせめぎ合いの中で、世界を席巻したジャパンシルクを担った労働者の「内面」に迫った本『養蚕と蚕神』(慶應義塾大学出版会)をこのほど上梓した。


「金色姫信仰は安産祈願とも密接に関連していた」と沢辺さん=3月19日、つくば市神郡の蚕影山神社

「養蚕は小さな命に寄り添う全身労働。彼女らにとって蚕は家畜であると同時に、わが子のような存在でもあったと思います」

養蚕との出合いは大学4年生の時。フィールドワークで山梨の伝統工芸品「大石紬」の製作現場を訪れた。

糸を紡いで一家を支えた老婆に取材中、折よく届いたのは純白に艶めく大量の繭玉。反物を一つ仕上げるのに何匹の命が関わり、着物はなぜ母から娘へ継承される日本の伝統衣装なのか―。蚕と寝食を共にした女性たちに会いたいと思った。

女神

1872年(明治5)、官営の富岡製糸場が稼働し生糸生産は文字通り国策に。ヨーロッパでは繊維業が急成長したが蚕の病気が大流行。日本の生糸は国際市場で歓迎された。経済史学の観点から当時の国内事情を調べると、近代化の過程で蚕糸業に携わる女工らは資本家による搾取や低賃金労働などにさらされていた。

一方、民俗学の文献では故郷の筑波山麓にある蚕の神様を祭った蚕影神社と、養蚕農家の女性の間で信仰された「金色姫物語」に行き当たった。継母に憎まれた天竺の金色姫(こんじきひめ)は、4度命を狙われた末に桑の木で作られた舟に乗せられ、現在のつくば市神郡にある「豊浦の港」に流れ着き、息絶えた金色姫から養蚕が始まった―。神仏分離などイデオロギー統制の時代を経ても俗信的な民俗神が支持され、女性らの想像力がどのように生き続けたかにも興味が湧いた。

体温


①著書『養蚕と蚕神』と真綿②蚕の世話は今も昔も女性の仕事③純白の繭玉(②、③は沢辺さん提供)

2010年から4年間、断続的に群馬県の養蚕農家に住み込みで調査した。男性は餌となる桑の葉の摘み取りや商取引の一切を仕切り、技術的担い手は今も昔も女性だった。蚕は皮膚が弱いため手袋はご法度。主な仕事は餌やりで、見た目には簡単そうだが湿度や温度などの管理に神経を使った。

薄明かりの部屋には3万匹の白い虫が呼吸し、黙々と桑の葉を食べ続けていた。まるで蚕のためにあるような母屋で指先に感じた蚕の体温は、片時も離れない母子の姿を連想させた。桑を食む音が止むと、それは脱皮の合図だった。

生涯4度の脱皮は見た目にも辛そうで、金色姫が継母に4度殺されかけた民話を思い出さずにはいられなかった。やがて繭(舟)になり煮沸され命を全うする「わが子」。不思議な労働の充足感を覚え、帰途に就く頃には女性らがお蚕様とあがめ、「蚕には感情がある」と口をそろえるのも腑に落ちていた。

矛盾

研究を進めるにつれ、より良質で均一な蚕種を生産する過程で、かの有名な「メンデルの法則」が世界で初めて適用された動物が蚕だったことも知った。研究成果は優生思想の科学的根拠を形成し、戦中の国民優生法成立にも寄与していた。同じ頃、アメリカで化学繊維が開発され生糸市場は大幅に縮小したが、今も宮中行事として紅葉山御養蚕所の「ご養蚕」は続いている。

最盛期には全国に221万戸、農家全体の4割が携わっていた養蚕業は現在約300戸まで激減したが、「身体感覚や民俗的想像力を伴う労働が日本の近代化を支えていた」と沢辺さん。「国家の虫」を赤子のごとく慈しみ、生活のためにその命を供出し続けた女性らには矛盾に寄り添う物語が必要だった。

合理的な科学技術や現代の労働はそうした世界とは一見切り離されているようにも見えるが、「資本主義の社会的価値の見直しが求められる今だからこそ自然と向き合い、身体感覚や想像力を駆使して働いた人々の姿を見つめ直してほしい」と話している。

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