鯉こく、うま煮、洗いなど、正月や慶事の行事食として親しまれたコイ料理。食生活の変化などで国内向けの消費が減少する中、5代にわたって霞ケ浦の恩恵を受けてきた漁師が「魚食文化を守りたい」と孤軍奮闘。大豆が主原料の発酵餌を開発し、「泥臭くなく、脂が乗ったコイ」を各地に出荷している。
おからや米ぬか、大豆の粉末にレンギョやブルーギルなど外来魚の魚粉が、霞ケ浦湖畔に建つ有機飼料工場の大型機械に吸い込まれていく。数々の工程を経て固まったペレットを、養魚場を切り盛りする櫻井謙治さん(79)が手のひらに取って品質を確かめていく。
生産量は一日約2トン。沖に張られた150面の網いけすで育てる食用コイに、今年は3月から与えていく。昨年、養魚場を訪れた大学生らにコイ料理をふるまい、「初めて食べたけどおいしい」「臭くない」と好評だった。ペレット開発に要した歳月は約15年。「自家製の発酵餌でコイを育ててるのは全国でもウチくらい。命懸けてやってっから」。
霞ケ浦の養殖コイ生産量は1982年(昭和57)に8641トンと最盛期を迎えたが2016年には1057トンと約8分の1まで減少。その歴史は苦難の連続だった。
1964年(昭和39)、塩害や洪水防止を目的に常陸川水門が閉じられると、多くの漁師がワカサギやシラウオ、エビなどを「獲る漁業」に加え養殖など「作り育てる漁業」を開始。73年(昭和48)初夏、湖に異変が起きた。魚が獲れなくなり、アオコが発生し酸欠でシジミやコイが大量に死んだ。「水門を開けてくれ!」。業者の代表として櫻井さんも仲間と水門開放の湖上デモを行い、環境庁では一升瓶に入れたアオコを手に陳情した。以後、手塩に掛けたコイを売り歩きながら全国の湖をただただ見て歩いた。「人間の都合で自然の形を変えたしっぺ返しだと思った」。03年(平成15)秋にはコイヘルペスウイルス(KHV)が発生。感染拡大を防ぐためコイは全量処分され、多くの養殖業者が廃業した。
そんなある日、息子から発酵餌でニジマスを育てる業者の話を聞き、右も左も分からぬまま餌作りを始めた。当初はペレットがうまく固まらず、夏場は給餌機の中で発酵が進み溶けてしまったことも。周囲の声は「業者から買え」「練り餌より非効率」「やっても無駄」、そして「もはやコイが売れる時代じゃない」。それでも、穀物や雑魚、酸素、水分の配合量などを一日も欠かさず15年間ノートに記録し続けた。
そのうちKHVに耐性のあるコイの作出技術も向上し、10年前から出荷の自粛要請も解除に。昨秋には発行餌で育てたコイを見てもらおうと全国を回った。KHV騒動で離れた以前の得意先は、脂の乗った切り身を見ただけで「取り引き再開」となった。
日本人が口にするコイの消費量は年々減少しているものの、櫻井さんにはひとつの希望がある。日本学生支援機構の調査によると、平成30年5月現在の外国人留学生数は29万8980人(前年比3万1938人増)で、アジア出身者は27万9250人と全体の93.4%を占める。そのうち約6割はコイやライギョ、ナマズなど淡水魚の食文化を持つ中国やベトナム出身で、「かの国ではコイが高級魚。都内の淡水魚の市場は大にぎわいだよ」。今後に淡い期待を抱きつつ、櫻井さんはきょうも軽トラに自慢のコイやシラウオを載せ、霞ケ浦の魚を全国にPRして回っている。
「歳を取ったら自らの顔に責任を持て」。その昔、麻生藩家臣から霞ケ浦湖畔の漁師となり、大徳網を引いて一家を支えた曽祖父の魂を心の支えにして。